「疑似注射」で脱薬物依存 よみがえる高揚感、欲求…徐々に薄める
覚醒剤など薬物依存の克服を目指す患者に、「注射器」を積極的に提供する病院が大阪府富田林市にある。依存克服には、薬そのものや摂取道具の注射器などは遠ざけるのが通例のように思われるが、逆に脳の働きを利用し、本物に似せた注射器による”疑似本番”で欲求を徐々に薄めていくという。依存を断ち切れない負のサイクルにくさびを打ち込む新治療法とされ、患者だけでなく司法関係者らの注目も集めている。
汐の宮温泉病院(富田林市伏見堂)で4月中旬、アルコール依存症患者ら約20人が集まった院内ホールに、注射器を手にした男女4人の姿があった。
昨年10月から入院中の兵庫県の男性(42)が、白い粉(食塩)を混ぜた水を注射器に流し込み、中指で表面をはじきながら慎重に水泡を抜く。針のない先端を静脈にあてピストンを押し戻すと、内蔵の赤黒いインクが筒内ににじんだ。
男性がつぶやく。「心臓がドキドキしてのどが渇く。『自分はなんでもできる』。あの高揚感がよみがえるんです」
薬物使用時の感覚が再現され、快楽の記憶を呼び覚ます「疑似注射」がなぜ治療に結びつくのか。
同院の中元総一郎医師は「パブロフの犬」という言葉で理由を説明した。ベルを鳴らし犬に餌を与え続けると犬はベルの音を聞くだけでよだれを出すようになる。薬物依存症患者も同様に、覚醒剤の報道や注射器を見るだけで使用時の感覚が再現される「条件反射」が形成されるという。条件反射は理性をつかさどる神経系統を経由しないため「二度と使わない」と強固な意志があっても再び薬物に手を出してしまうのだ。
中元医師らが取り組む「条件反射制御法」は、条件反射を引き起こすようなシチュエーションを繰り返す。「ベルが鳴っても餌がもらえない」という体験を続け、条件反射を鈍くさせるのが狙いだ。疑似注射は条件反射制御法のプログラムの一つで、200回以上反復するうちに高揚感などが薄れていくという。
「仲間同士でクスリを使う直前、なぜかみんなトイレに行列を作る」。疑似注射の原点は、下総(しもふさ)精神医療センター(千葉市)の平井慎二医師が患者から聞いた不可解な話だった。
患者への聞き取りで「覚醒剤を使うと腸がゆるむ」経験が、「覚醒剤を見るだけで便意が生じる」条件反射を呼ぶことが判明。新治療法の発想に結びついた。
平井医師らとともに研究に取り組んでいた中元医師が平成23年、汐の宮温泉病院で本格的な治療を開始。疑似注射などの薬物治療に救いを求めて同院に入院した患者は同年度の15人から24年度が約30人、25年度が55人と増加している。
新治療法は、司法の「常識」も覆した。薬物使用の再犯で実刑の可能性が高い被告は、判決確定前に保釈が認められるケースはまれだった。しかし、23年12月に覚せい剤取締法違反罪などで起訴された女性被告の事件で、大阪地裁は汐の宮温泉病院での生活を条件とした異例の保釈を認めた。
事件を担当した西谷裕子弁護士はその後、同様の事案計5件で被告の保釈を請求、いずれも認められた。西谷弁護士は「逮捕から収監までの間に『もう刑務所に行きたくない』と更生への意志は最も強くなる」とし、「この間に保釈されれば治療に真摯(しんし)に向き合い、再犯防止にも大きく寄与するはず」と期待を込める。
ただ、新治療法は緒に就いたばかり。汐の宮温泉病院のプログラムを終えた患者でも、約半数は1年以内に再び薬物に手を染めるという。中元医師は「十分な期間、治療を継続できれば効果は見込める。取り組みを広げる活動を続けていきたい」と話している。
via – Yahoo News